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イサム・ノグチは日系アメリカ人の彫刻家で、1988年に他界するまでに数々の偉大な作品を残しました。彼は生涯、日本とアメリカの狭間に生きた人間として、それをバネに数々の名作を生み出した人といえます。彼の作品は世界中の様々な場所に存在し、現在も見る人の心を動かし続けています。

イサム・ノグチの略歴

 

1904-31  1932-49  1950-61  1962-88

 

1904-31

1904

11月17日、ロサンジェルスに生まれる。 父親は東京からの日本人詩人であった野口米次郎(後に慶應義塾大学にて英語の教授)、母親はニューヨーク生まれでアメリカ人作家のレオニー・ギルモア。

1906

家族で東京へ移り住む。

1908

Morimura Gakuen幼稚園に通う。

1910

茅ヶ崎に引っ越し、2年間を地元の学校で過ごす。

1912

妹のアイリス誕生

1912〜1917

横浜にあるイエズス会派の学校に通う。茅ヶ崎にて大工の見習い。

1918

母親の意志で、インディアナ州ローリング・プレーリーのインタラーケンスクールに通うため、アメリカに送られる。しかし、同スクールがアメリカ軍の訓練キャンプとして利用されたため、秋に公立の学校へ通うことになる。

1919

インタラーケン創立者のエドワード・ラムリーの知遇を得て、同州ラ・ポートの高校で寮生活を送る。ラムリー氏から医者になるようにアドバイスを受けるが、芸術家になりたいという意志があり、スタンフォードの彫刻家ガツン・ボーグラムの助手にさせてもらう。ボーグラムから芸術家にはなることがなかろうと言われ、ラムリー氏のアドバイス通り、医学を勉強しようと決意する。

1922〜1924

コロンビア大学で学びながら、夜はレストランで働く。

1923

母親が、17年間の日本滞在の末、西海岸へ戻る。

1924

ニューヨークへ引っ越してきた母親のアドバイスで、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校に通う。校長オノリオ・ルオトロの手伝いをし、3ヶ月後には、最初の個展を学校にて開く。

Greenwich Villageにある127 University Placeにアトリエを構える。

National Sculpture Societyのメンバーとなる。

National AcademyとArchitectural Leagueにて頻繁に作品を発表する。

1926

Alfred Stieglitz's gallery、An American Place、New Art Circle of J.B. Neumanなどに通う。

Brummer GalleryでBrancusiの作品と遭遇する。

1927

John Simon Guggenheim Memorial Fellowship(グッゲンハイム奨学金)を受け、パリへ。

朝はBrancusiの元で働き、午後はAcademy Grande ChaumiereとCollarosi Schoolで学ぶ。

1928

ニューヨークへ戻り、最初の個展を開催。

1929

Martha Graham、George Gershwin、Buckminster Fullerなどの肖像彫刻を制作。

Marie Sterner Galleryにて個展。

Harvard Society of Contemporary Arts、Arts Club of Chicagoにて個展。

1930

パリへ戻る。

1931

ベルリン、モスクワを経て、シベリア横断鉄道で北京へ。斉白石の元で水墨画を学ぶ。

東京と京都へ。宇野仁松のもとで陶芸を学ぶ。

銅像Ruth ParksがニューヨークにあるWhitney Museum of American Artに購入される。

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1932-49

1932

ニューヨークに戻る。

Demotte Galleryで毛筆の作品を、John Becker Galleryにて陶芸の展示をする。

1933

生活困窮。図像制作のため夏にロンドンへ。この頃初めて大型のpublic projectsとしてPlay mountainやMonument to the plowなどをデザインした。

1934

WPAにより初のデザインを却下される。

1935

2月に「Lynched Figure」を含む作品を発表。マーサ・グラハムのために初めての舞台装置「Frontier」を制作。

1936

メキシコシティのアベラルド・ロドリゲス広場で壁画レリーフを制作。8ヶ月過ごす。

1937

ニューヨークに戻る。初めての量産品「Radio Nurse」をZenith Radio Corporationのために制作。

1938

ニューヨーク万博フォード自動車館のために初の噴水作品「Chassis Fountain」を制作。10月にはロックフェラーセンターにあるAP通信社のコンペで「News」が入選。

1939

ドール社の招待でハワイへ。初めての遊具「アラモアナ公園のための遊具」をデザイン。ニューヨークで、初めてのテーブル作品「Table for A. Conger Goodyear」をデザイン。

1941

夏にアーシル・ゴーキーとカリフォルニアへ。ハリウッドに住む。

1942

「二世作家及び美術家民主主義動員同盟」設立。内務省アメリカ・インディアン局J・コリアの要請で、拘留者の生活環境を向上させる目的でアリゾナのポストン強制収容所に入所。

1943

はじめての照明作品「cylinder lamp」を制作。

1944

「coffee table」と 「dinette set」をデザイン。後の1947年にHerman Miller社により量産される。

1946

ニューヨーク近代美術館「14人のアメリカ人」展で、「大理石の組み合わせ彫刻」が絶賛される。

1947

「American Stove Company ceiling」「 Time-Life ceiling」 「Memorial to Man」「 Errand into the Maze」「 Night Journey」などを制作。

1948

インドのガンディー記念碑案をデザイン。アーシル・ゴーキー自殺。

1949

ニューヨークのチャールズ・イーガン画廊で1935年以来初の個展を開く。世界各国へ勉強のため旅して回る。

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1950-61

1950

19年ぶりの来日。丹下健三ら若い芸術家に歓迎される。慶応大学の「Memorial room」 と「garden」の デザインを頼まれる。8月に三越デパートでの個展後、9月にニューヨークへ戻る。ニューヨークで将来の妻となる山口淑子と出会う。

1951

3月に再来日。6月に丹下健三とともに広島へ。広島平和公園内にある2つの橋を見学。手すりのデザインをする。岐阜に旅行し、初めてのAkari lanterns をデザインする。リーダーダイジェスト東京支店の庭をデザインする。ハリウッドに戻り「 United Nations Playground」(unrealized)をデザインする。

1952

山口淑子と結婚。北鎌倉の北大路魯山人のもとで新居とアトリエを構える。原爆慰霊碑デザインは不採用に。神奈川県立近代美術館で個展を行う。この時はじめて「Akari lanterns 」が日本に登場する。

1953

ニューヨークに単身帰国。淑子の入国ビザ問題発生。6月から12月まではアメリカ国外で淑子と過ごす。

1955

淑子と別居。ニューヨークではじめてのAkari個展。

1956

2月、淑子と離婚。パリにあるユネスコ本部庭園(完成は1958)、コネチカットにあるジェネラル生命保険会社の庭園(完成は1957)の依頼を受ける。ニューヨークの5th avenueに「waterfall wall」「ceiling」 を制作。(完成は1958)

1957

ブッダ生誕2500年のニューデリーでの記念碑をデザイン(Unreleased)。日本に戻りユネスコ庭園のための石を探す。

1958

ユネスコ庭園の仕事を終えニューヨークに住む。

1959

プリシラ・モーガンと出会う。ステーブル画廊個展。

1960

テキサスにあるFirst National City Bank Building Plazaのための彫刻制作を開始。イスラエル美術館にあるビリーローズ彫刻庭園の制作を開始。コネチカットのイエール大学内にSunken Garden for Beinecke Rare Book and Manuscript Libraryを制作開始。

1961

ロング・アイランド・シティにアトリエを構える。Riverside Drive Playgroundのために案を練るが実現せず。ニューオーリンズにMississippi Fountain for John Hancock Insurance Company Building制作を開始する。(完成は1962年)

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1962-88

1962

ローマのアメリカン・アカデミーで制作。イタリアのカッラーラにヘンロー社社長を訪れる。この先10年間、毎年イタリアを訪れることになる。

1964

IBM本社庭園を制作。故ケネディ大統領墓所をデザインするが実現せず。

1965

初の遊園地「こどもの国」の仕事にYoshio Otaniと着手。

1966

マーサ・グラハムのための最後の舞台装置をデザイン。国立近代美術館のにインスタレーションを制作。日本とアメリカの芸術家を支援する目的でAkari Foundationをニューヨークに設立。和泉正敏と四国で、シアトル美術館のために「Black Sun」の制作に着手。

1968

ホイットニー美術館で個展。 「A Sculptor's World」を刊行。Red Cube、Octetraを制作。

1969

ワシントンにある大学にSkyviewing Sculptureを制作。牟礼にスタジオを作る。

1970

大阪万博のための噴水を制作。コルディエ・エクストレーム画廊個展。

1972

デトロイトでショージ・サダオと共にDodge FountainとPhilip A. Hart Plazaの制作を始める。ドイツにあるBayerische Vereins Bankのために彫刻を制作。

1974

フロリダのPalm Beachのために「Intetra, Mist Fountain」の制作を開始する。ロングアイランドシティのアトリエ拡張。

1975

シアトルにあるJackson Federal Buildingのために「Landscape of Time」を制作する。アトランタにある Piedmont Parkの中に「Playscapes」を制作する。

1976

オハイオのCuyahoga Justice Centerに 「Portal」を制作。ハワイのホノルルに「Sky gate」を制作。Art Institute of Chicagoのために噴水の制作を始める。

1977

ニューヨークのStorm King Art Centerのために「Momo Taro」、東京の草月美術館に「Tengoku」の制作を開始。

1978

ショージ・サダオと共に Lillie and Roy Cullen Sculpture Gardenの制作を開始。ミネアポリスにあるhe Walker Art CenterにてNoguchi's Imaginary Landscapes展が開催される。Sam Hunterによって「Isamu Noguchi 」が出版される。

1979

イタリアのボローニャに「Piazza」をデザインする。ショージ・サダオと共にマイアミに「Bayfront Park」を制作し始める。

1980

オハイオにあるthe leveland Art Museumに「Passage of Seasons」を、ニューヨークにあるthe Metropolitan Museum of Artに「Unidentified Object」を納める。he Kimbell Art Museumのために「 Constellation (For Louis Kahn)」の制作を始める。フィラデルフィアのBen Franklinの記念碑「Bolt of Lightening」の制作を再会する。カリフォルニアで「California Scenario」を始める。ホイットニー美術館で「 The Sculpture of Spaces」を開催。

1981

ショージ・サダオと共にNoguchi museumのデザイン・設計を始める。

1983

予約制でNoguchi museumをオープンする。牟礼の石庭の設計を始める。

1984

Domon Ken Museumのための「water garden」が完成。80歳記念「イサム・ノグチ展」を草月美術館で開催。

1985

Noguchi Museumのオフィシャルオープン。

1986

the Venice Biennaleのアメリカ代表に。京都賞受賞。メトロポリタン美術館に「Tsukubai fountain」を制作。スライド・マントラ制作。

1987

レーガンよりアメリカ国民芸術勲章受章。

1988

札幌の「モエレ沼公園」設計に着手。高松空港の彫刻制作に着手。 Third Order of the Sacred Treasureを受章。12月30日ニューヨークの病院にて死去。

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